日本犯罪史上最多の被害者を出した津山事件の真相
2016/09/24
岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾は自然の多いのどかな集落だ。
そんな静かな集落で1938年(昭和13年)5月21日、日本犯罪史上最多となる死者を出した津山事件は引き起こされることになる。
津山事件は津山三十人殺しとも呼ばれ、その名の通り、この事件で殺害された被害者の人数は30名にも及んだ。
この数は日本の犯罪史上最多の死者数であり、また驚くべきことに30人の被害者は2時間の間に殺害され、歴史に残る史上最悪の事件となった。
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事件の詳細
事件となる21日の前日の20日の午後5時ごろ、集落全体に電気を供給する送電線の電線を切断し、村全体を停電させた。(時代的にも停電は村の住民にとって特に珍しいものでもなかったことから特に気にする人もいなかったよう)
1938年(昭和13年)5月21日の午前1時頃、この地の出身である都井睦雄(当時21歳)は、詰襟の学生服に軍用のゲートルと足袋を履き、頭にははちまき、懐中電灯を頭の両側に1本ずつ結い、首からは自転車用のランプを提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃という出で立ちで犯行に及ぶ。
まず第一の被害者となったは都井の実の祖母であった。
寝ている祖母の首を斧でひとはねし、冷静にその場を後にした。祖母は即死したとみられている。
この犯行の後、真っ暗な深夜の集落を颯爽と駆け抜け近隣の住宅に住む村人たちを自宅へ押し入り次々に殺害していった。
集落から約3.5km離れた仙の城と呼ばれる荒坂峠の山頂まで行くと、殺害するために押し入った家の子供に借りた紙と鉛筆を使って最後の遺書をしたためた。
血で染まる手で鉛筆と紙を握りしめ、興奮状態の都井は以下のような遺書を残している。
【遺書原文】
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。 思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
(犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のママとする)
都井は猟銃の銃口を自分の胸に突き付け、引き金を足で引き、心臓を自ら撃ち抜いた。
なぜ犯行に及んだのか?
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津山事件を引き起こした都井睦雄はどのような人物だったのであろうか。
事件の残虐さから、しばしば無差別に殺害していったと思われがちだが、中にはこんなエピソードも残っている。
押し入った家に住む老人が血まみれの都井に対して『けして動かんから命だけは助けてくれ』というと、都井は『それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん』と言って老人を殺さず見逃したという。
他にも、子供には手を掛けなかったり、『お前はわしの悪口をいわんかったから、助けてやるけんのう』といって見逃した。
このことからも決して村の人々を無差別に殺害していったわけではなく、これほどまでに残虐な犯行を決行していながらもしっかりとした判断能力は持っていたものと考えられる。
遺書にも残されているが、都井がこの事件を決行した動機の一つには以前自分と関係を持っていた女性が他家へ嫁いだことが挙げられる。
また、結核を患っていたことから村の人の目が冷やかであり、村からの疎外感や孤立感というものも大きかったという。
日本の犯罪史上類を見ない残虐な事件ではあるが、都井は決して凶暴な性格ではなかったし、当時のことを知る集落の人間も都井のことを『頭の非常にいい人間で、物事の思慮分別はしっかりしていた』と語っている。
過去最多の被害者数を生んだ津山事件は、時代や風習などが生み出した悲しい事件なのかもしれない。
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